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あいすまん

あいすまん

あいしだん(詩選集)

                  みやじ。による詩選集
                    あいしだん
              (ミニコミ誌「あいすまん」掲載)


                     第1回
2002年春季~夏季(3月~8月)作品
(「あいすまん」3号―2002年10月1日発行―掲載)

 わたしに選ばれたからといって何の権威も生じないが、新人は大い
に歓迎いたします。詩を書こうよ仲間になろうよということで詩壇へレ
ッツオルグ!

 第一回なので勿論投稿はまだなし。よってこれまで沖国大文芸部
HP投稿掲示板に寄せられた作品を取り上げてみます。


こうして「時代」は始まった・・・

ゆう

不安を呼ぶ新世紀の幕開け・・・。
審判はどちらに下るのか・・・。
船長(キャプテン)アメリカと、それを狙う「神」の国々・・・。
撃て!撃て!と彼らは叫び、それぞれの「正義」は、世界中を支配する・・・。
沈むのは、果たして「文明社会の論理」なのか、それとも「神の予言」なのか・・・。
せめぎ合い、睨み合い、殺し合いが続く国際社会。いま、我々は問い直さねばならない。
より所はどこだ!? 我々のアイデンティティーは一体何なんだ!?

02/03/07(Thu) 15:01

評▼『沖国大文学』第3号にも掲載されたゆう氏の政治色濃い作。改
行が不自然(作為的)であるところから、折句の手法を用いているこ
とがわかる。つまり行頭を読むと「不審船撃沈せよ」と書いてある。隠
された言葉を探し出すという楽しみはあるかもしれないが、その先に
独自性がないと詩としては甘い。武力衝突の背景にある資本主義論
理と宗教原理の対立の構図から、「我々のアイデンティティー」を「問
い直」す、というのはさして新しい発想でなくテレビとかでよく聞く言
説。言葉一つひとつをとってみても、日常語の範疇を抜け出切れて
いない。発想という点からいえば、資本主義論理と宗教原理が対立
していること自体に疑問を投げかけるとか、詩語への転換という点で
は、ダイレクトに描くのではなく何かの比喩を利用してそれと共通す
る真理を描く、とかいう工夫があれば「ふうん」で終わらない詩になる
と思う。

ピエロからの贈り物



陶器のピエロは白く
丸い赤鼻は可愛く
目や口は素顔を隠し
黄色い長い髪はとんがり帽の飾りみたい
カラフルな衣装に身を包み
ただ座っているだけで楽しませてくれる
そのピエロから貰ったもの
それは幼い頃に置き忘れた純粋な心
人を信じる心 人を愛する心
人を楽しく幸せにする心
陶器のピエロは語らずに沢山の贈り物をくれる

02/06/07(Fri)
12:53


評▼詩語への転換が甘い点では先の詩と共通する。「とんがり帽の
飾りみたい」は具体的でいいかんじだが、「可愛く」や「純粋」といった
語をそのまま使うと抽象的な心情の吐露に終
わってしまい、読み手の思考を限りなく受動的なものに抑えこむ。読
後あまり想像力をかきたてられない。全体的に読者が解釈する余地
が与えられていないのだ。モチーフの在り方自
体は面白いのだが、「楽し」んでいるのは筆者であり、読者はおいて
けぼり。心が洗われますと報告するのではなく心が洗われる様なピ
エロの姿が目に浮かぶような描写を。


灰皿

MVCH-29019

灰皿に4本の吸殻
1本は焦燥感
次の1本は決意
次の1本は安息
次の1本はただ僕の好きな無意味な時間
その間に1本の電話
日記につける程もないささやかな事件の終結

02/06/08(Sat)
15:42


評▼非常に想像力の書きたてられる作であり、前者二篇に足りない
物を具体化した秀作。四本の煙草の吸殻に託された四つの心境。
恐らく時間軸で配列されている吸殻のどこに「1本の電話」は挿入さ
れるのかというところに詩語の飛翔がある。無限に与えられる解釈
の可能性。焦燥と決意と安息と「無意味な時間」の狭間にある「電
話」は、「日記につける程もない」ほど「ささやか」だけれど「事件」であ
る。一体どんな用件の電話なのか。「僕」がかけた電話なのか、それ
ともかかってきたのか。詩に限ったことではないが、解釈の広がりを
許容する懐の深さを持った作品でなければ、読者に通じない言葉の
羅列に終わってしまう危険がある。



(「芋畑」キュウリユキコ)



評▼さらに解釈の広がりという点に加え、自己の原風景を描くことに
よって詩語の密度を高めることに成功しているのがこの作。日常生
活の奥底で絶えず人間を捉えている「原風景」を描写するのは、冷
静な自己認識が求められる。その時々の心情や事件を表すのも詩
だが、心の底に広がる風景を描くのは、詩が普遍性を獲得するため
の確実な道であるように思う。



第2回
2002秋季~冬季(9月~12月)作品
(「あいすまん」4号―2003年8月中旬発行―掲載予定)


高齢化の進む沖縄県内詩壇に若手を取り込んでいく新人限定投
稿欄「あいしだん」第2回。県内在住及び出身者で30歳未満なら誰で
も投稿OK。投稿掲示板まで。
 「あいすまん」公式ホームページ立ち上げが遅れているせいもあ
り、今回も沖国大文芸部HP投稿掲示板に寄せられた作品を中心
に。しかし今秋は沖国大文芸部の松永朋哉が詩集『月夜の子守唄』
を発行、沖国大文芸部も『沖国大文学』四号を発行したので、そこか
らも数篇とりあげてみたい。
 まず投稿掲示板には期間中9篇が寄せられた。そこから2篇。


Gera



沈黙のバトルが繰り広げられる
今まで仲間だった人たちが
同じフロアに集まると
笑いながら心を探りあい
目では火花を散らす
殺るか殺られるかの世界
沈黙のバトルロワイアル
芯の強い者が残るのか
嘘の巧い者が残るのか
今日もまた
Geraのゴングが鳴り響く
02/11/06(Wed) 09:22

評▼描写に徹しているのが良い。「Gera」とはタガログ語で「バトル」
の意だとか。九条岬氏の詩は『沖国大文学』二号掲載時(2001年9
月)以来、猟奇的な描写がされてきた。今回寄せられた「呪われた着
物」「印」がその路線に類する作で、描写に徹し、読者の予想を裏切
る展開を狙う野心がエンターテイメント性を生んでいたのだが、この
路線は現在多くの若い書き手が使う手法であり、長く続けるとネタ切
れになってくる。それは自己の体験に則さない完全な創作だからで、
小説に適した手法になってくるからだ。路線に変化が見られたのが
前回取り上げた「ピエロからの贈り物」あたりからだが、今度は語り
すぎのきらいが出てきた。今回では「喜怒哀楽の世界」「aqua magic」
がそう。読者の想像力を刺激する以前に作者が答えを語ってしまう
のだ。その中庸があればいいと感じていたところにこの作。猟奇でも
なければ語りすぎでもない。ナチュラルな形で描写に徹することがで
きている。読者の誰もがトランプやテレビゲームやカードゲームなど
で体験したことがあるであろう、同じ時間と空間を共有することで、日
常の友情関係を傷付けることなく互いの残虐性を晒し、限定的に欺
きあう「ゲーム」の楽しさの一つ。読者それぞれの「沈黙のバトル」の
情景を仮託し得る、普遍性を獲得し得る方向性を得ている。普遍性
を確実に獲得していくには、言葉の選び方に適切さと独自性を得て
いかなければならないとは思うが。具体的には、「笑いながら」は「笑
みを浮かべながら」程度が良いだろうし、「火花を散らす」「殺るか殺
られるか」「芯の強い者」などの語が一般的な言い回しに留まってい
て再考の余地を残している。

あなたへ

                    MVCH-29019

書けない 書けない あなたへの詩が
初めて私の詩を誉めてくれたあなたへの
詩が
「ありがとう」と「さようなら」
あなたの事を きれいな黒髪
個性的すぎたあなたの趣味とふたりで眺
めた星空のこと
書けない 書けない あなたへの詩が
もう何年も過ぎたのに

書けない 書けない あなたへの詩が
何でも話せた一番の友達のあなたへの
詩が
「ありがとう」と「さようなら」
あなたの事を いくつもの夜を
二人で築いた互いの個性と積もり積もっ
た吸殻の山
書けない 書けない あなたへの詩が
あなたはもうここにいないのに

書けない 書けない あなたへの詩が
いつも心の支えになっているあなたへの
詩が
「ありがとう」と「さようなら」
あなたの事を 教えてくれた遥かな世界

桃色のくもと夢と自由のうたを
書けない 書けない あなたの詩が重過
ぎるから
もう何年も経ったのに

書けない 書けない あなたへの詩が
誰より一番側に居て 誰よりも好きなあな
たへの詩が
「ありがとう」と「またあした」
あなたの事を ながい夢の途中
っていうかあなたは絶対それをネタに後
でいじめてくるから
書けない 書けない あなたへの詩が
それは意地でも書けません

書けない 書けない 書けない 書けない
感謝の気持ちはいつもあるけど
照れくさいから先延ばし
今書かなくてもいいじゃないかと
どこかでいつも歯止めがかかる
勇気を出して この言葉を書く
「ありがとう」
02/11/06(Wed) 13:46


評▼「書けない」ということを書く、ということの産み出すリアリティーを
感じた。小学校の先生は「書けないなら書けないということを書けば
いいのよ」とよく言うが、それは至難の業であり、本当に書けないこと
というのは、「あなたへ」にようにここまで想わなければ書けないもの
なのだ。大概は本気で書こうと思っていないだけであり、書こうと思っ
ても書けないことなんて、殆どないのだ。「何でも話せ」て「初めて詩
を誉めてくれた」「あなた」への言葉が紡げない。最も身近で、大切な
人への言葉というのはなかなか紡ぐことは難しいものだが、「あなた」
が「もうここにいな」くなって「何年も過ぎた」のに、それでも紡げないと
いうのは、余程「あなた」の存在が作者の言葉を紡ぐこと自体の根幹
に深く関わっていたということであり、即ち「書けない」ことが「二人で
築いた互いの個性」に重みを持たせている。わたしは「桃色のくも」で
誰のことかわかってしまったのだが、誰であるかは問題でなく、大切
な人への言葉は「歯止め」がかかってなかなか紡げない、自分の中
で巡り巡って最終的に何の変哲もないシンプルな言葉こそリアリティ
ーを持ちうるという、人間の普遍的な心情が描けている点が重要な
のだ。「勇気を出して」紡いだ「ありがとう」には十分過ぎるほどのリア
リティーがある。
次は松永朋哉詩集『月夜の子守唄』より。

夢の記憶

松永朋哉

畳のある居間で大人たちが
世間話をしているのを尻目に
子供は逃げ出した
彼らに見つからないように

見渡す限りのさとうきび
その中に廃屋が一軒
子供は鉄条網を乗り越えて
どこまでも逃げた

階段を駆け下りて
小さな縫製工場を通り抜けて
子供は必死に走った
捕まらないように

見上げれば灰色の雷雲
電線には大きな黒い鳥
子供は怯えている
黒い影が追ってくるから

追いかけてくる恐怖と絶望
抱えこんだ孤独と無力感
子供は逃げる
捕まれば存在が消される

歪んだ「自由」は力を失った
形骸化した「幸福」に価値はない
子供はそれを知っているから
影に取り込まれないように
力を求めて、逃げているのだ。


評▼この詩にわたしが愕然としたのは、思春期を経る間に人間は誰
しも社会的存在として生まれ変わるとするなら、そこで殺されてしまう
思春期以前の自分を、思春期以前の自分の視点で描いているので
はないかと思ったからである。大人になる際に感じる恐怖とは、子供
である自分が抹殺されてしまうことへの恐怖であり、まだ子供だった
頃の自分の視点で見れば、自分がこの世から消されてしまい、新た
に生まれた「大人の自分」が自分に成り代わって生き始めることにな
る。その視点の転換が、この詩に描かれている大人から逃れようと
する心境に説得力をもたせている。
全二〇篇中、最終連があることで語りすぎになっている作も数篇あ
ったが、以下の三篇は良かった。「ジャメ・ヴュ」は未視感を捉えよう
とする視点が良い。説明的な第三連を変えるか省くとよりクールにな
る。「月の眠る湖」も第三連の問いかけがストレートすぎる。問いかけ
なくても第二連があることで問いかけになっているので、替わりに描
写を細かくしていくとなおいいだろう。「この島の赤」はあらゆる赤にこ
の島の記憶を見ている視点はいいのだが、詩は元よりたとえ話のよ
うなものだから「~のよう」という直喩表現は省くと良いと思う。全体を
通して語り過ぎのきらいはあるが、様々な題材を独自の視点でとらえ
る力には興味深いものがある。書き続ければ自然と「現代詩の水
準」に達するぐらいの客観性は得るだろうと思う。
 『沖国大文学』四号より二篇。

音色認識ロボ
紅木

私は新型ロボット。
音の種類によって働きが変わります。
静かで心地よい音なら、
子守り唄を歌います。
心が弾む明るい音なら、
家事全般をこなします。
耳を塞ぎたくなる不快な音なら、
全てを破壊しつくします。

さあ、音を聞かせて下さいませ。
私は響いてくる音を、
プログラムどおりに忠実に判断致します。
どの働きになろうと全力で尽くします。

さあ、どうぞ。
私とあなた様の行く末は、
あなた様次第でございます。


評▼「音色認識ロボ」と「あなた様」との、音の出し方によっては取り
返しのつかない誤解をも生みかねない、危ういコミュニケーション
は、紛れもない人間同士のコミュニケーションである。人間は一見、
明確な言葉によって会話をし、揺らぎのない正確なコミュニケーショ
ンを取れているものだと思いがちだが、実際は会話というのは言葉
の裏にある意図を理解していないと通じないものだ。相手がどういう
状況で、どういう心境でその言葉を発しているのかを察することなくコ
ミュニケーションは成立し得ない。だからこそ誤解やすれ違いが日々
生まれ、傷つけあって信頼関係が築かれるのだ。一見ディスコミニケ
ーションに見える「ロボ」と「あなた様」との会話に、人間の関係性の
本質を見る。

ラジオをつけない日
トーマ・ヒロコ

蝉の声で目を覚ます
蛇口をひねって洗顔
トイレの扉を閉める
近所の子どもが泣きわめく
麦茶が喉を潤す
新聞をめくる
野菜を刻む
うなる換気扇
肉を炒める
皿がぶつかり合う
壊れかけの魔法瓶
バイクで来る郵便配達
空の郵便受けに舌打ち
離れた友へ言葉を刻む
つっかけを履いて表に出る
ポストの口は「毎度あり」
近所の子どもがはしゃいで遊ぶ
風に押され舞うカーテン
架空の恋愛をなぞってはため息
雪崩を起こした本の塔
裸足で床を歩く歩く
バイクで来る新聞配達
氷は麦茶へダイビング
せんべいを頬張る
子どもの帰宅を促す台詞と七つの子
シャワーの水は排水溝へ
こぼれ出る鼻唄
気が付きゃ大熱唱
日記帳を走る鉛筆
風にそよぐ草たち
暴走族
時間の進む音。

静かなようで
静かじゃない
ラジオをつけなかった一日


評▼余分な言葉はなく描写に徹している点でももちろんいいのだが、
それ以上に無音のにぎやかさという「発見」がある。
 最後の三行以外は、感傷を完全に排した全くの写実。ラジオや音
楽など、特別に鳴らすような音が止まっている状態では、普通無音で
あると認識しがちなところを、作為的でない様々な音を受動態に徹し
て受け入れることでありのままに認識できている。そのことによって
より作者の身の周りの情景をリアルに描き出せており、通常の視覚
による描写とは違って、音によって描写の可能性を極限まで引き出
しているのではないか。ここまで明確に割り切れるのは自分の選ん
だ表現手法に自覚的だからだろう。明確な方法意識のもと実験的な
作品を作るというのは意欲的で、詩の書き手としての力量を示すこと
になる。感傷を排する客観性は稀有なものであると思う。


まとめ▼詩に限らず、作品がリアリティーを得るには、まず第一に感
傷を排除していくことが必要である。読者を感動させる以前に作者が
感動していたのでは、読者は傍観者の側に回らざるを得ず、一歩引
いて作品を眺めることしかできない。そうなると作品に入り込むことな
どできず、感動などするはずがない。それどころか、他人が何に感
動しているかもよく見えないまま、感動している姿を見せられるという
のは、生理的に嫌悪感すら催すものなのだ。他人にも自分の感動を
伝えるためには、まずは自分の感動は置いといて、自分が感動した
対象や状況を冷静に描き出して見せることが重要なのだ。具体的に
いうと、「すばらしい」とか「悲しい」とか「恐ろしい」とかいう形容詞は
自分の感想であるので、他人に解釈してもらうためには邪魔になる
からまず排除。そして過不足無くありのままに描写するのが肝要で
あるから、作者の解釈の強要や説明のし過ぎもウザいので排除。
詩というのは自画像である。自分の姿も見えていない者が、泣いた
り怒ったり騒いだり感動していても、人は感動しない。人を感動させ
るには冷静になることだ。



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